ゆたかわ雑記

有象無象

鬼夜のこと

日本三大火祭りというものがあるのだそうです。

日本三大火祭りに関しては、三大なんとかにありがちな、書いてあるサイトによってラインナップがまちまち、というカオスな状態なので一体どれが正しいのやら全くわかりませんが、色々なサイトを眺めてみると、私の地元に程近い久留米市大善寺玉垂宮の鬼夜はわりと安定してランクインしている印象でした。

 

久留米はご近所ながら私は鬼夜自体を生で見たことはありませんが、鬼夜について少し調べてみて、帰省の折に実際に玉垂宮にもお参りしたので書き置きしておこうと思います。とても独特なお祭りです。

 

そもそも玉垂宮自体、他地域の方々には馴染みのない神社なのではないかと思います。

玉垂宮と書いて「たまたれぐう」と読みます。

久留米、筑後エリアには玉垂宮と言うお宮は大小様々にたくさんあります。地元の人たちもご祭神がどんな神様か、あまり気にしていないのではないでしょうか。かく言う私も神社や古代史に興味を持つまで全く気にしていませんでした。そのくらいなんか当たり前に、そこここにたくさん祠の在る土着の氏神様です。

f:id:yutakana_kawa:20230704223615j:image

こちらは高良大社の本殿。

大善寺玉垂宮の御祭神はそのまま、玉垂命(たまたれのみこと)です。別名で藤大臣(とうのおとど)、高良(こうら)大明神とも称するとされています。玉垂宮には玉垂命のほか、八幡大神住吉大神も祀られています。大きな神社では久留米市内には大善寺玉垂宮のほか、高良大社という筑前後国一ノ宮にも同じく玉垂命が祀られています。つまりこの地域の一ノ宮の御祭神が玉垂命ということで、筑後国における玉垂命の重要度が伝わるのではないでしょうか。

 

玉垂宮の創建は公式HPによると「謎が多く明らかでない」そうです。ただ、日本武尊の父である景行天皇の御代の創建と考えられており、とにかくなんかめちゃくちゃ古いっぽいぞ!という感じです。

玉垂命の別名、藤大臣は神功皇后三韓征伐の際に大功があったとされる人物。(人物とするとこの時代あるあるで寿命が長過ぎちゃうので人物というか役職or一族?)その後も朝廷に重用され、仁徳天皇の勅命で筑紫の国を平定してこの地で没した後、高良玉垂宮と諡されたと伝わります。

ただし玉垂命については記紀には載っていない神なので玉垂命が本当は誰なのか、正直よくわかっておらず、諸々論争があるようです。

f:id:yutakana_kawa:20230701012622j:image

こちらが大善寺玉垂宮。年末、鬼夜開催前のタイミングだったので提灯が飾られていました。

 

鬼夜は毎年1月7日の夜に開催されます。正月後のイベントなので年末年始に帰省する私にはこの先も実際に見物に行くのは厳しそう。

境内には見物客用のスタンドが設営されていました。当日の賑いが想像されます。

f:id:yutakana_kawa:20230704233215j:image

鬼夜の由来は、この地を荒らし、人々を苦しめていた賊徒を、勅命を受けた藤大臣が討伐したという土蜘蛛退治譚にあります。

あらずじは大体以下の通りです。

肥前国水上に「桜桃沈輪(ゆすらちんりん)」という悪党がおり、当地を荒らし、人々を苦しめていた。この地を治めていた筑紫の豪族、葦連は困り果てて朝廷に沈輪の討伐を願い出た。これを受けて仁徳天皇は藤大臣に賊徒討伐の勅命を下した。命を受けてやってきた藤大臣は、多数の兵を率いて沈輪の館を攻め立てたが、はて沈輪の行方がわからない。藤大臣は沈輪が池に潜ったとみて、大松明を焚かせ池に長鉾を突き立てさせたところ、たまらず沈輪は水上に顔を出し、大臣がその首を討った。沈輪の首は鬼の形相で天高く舞い上がったが、それを大臣は八目矢で打ち落とした。沈輪の生首は大臣の命令で堆く積まれた茅で焼かれた。これが368年(仁徳天皇56年)1月7日のことであったという。

藤大臣はこの功績が認められ、前述のとおり筑後を平定して玉垂命として祀られるようになります。

しかし、それから約300年後、玉垂宮と隣接する御船山高法寺の上空に、鬼火が現れ、人々が恐れるようになった。葦連の子孫である吉山久運が玉垂宮に参拝したところ、藤大臣が夢枕に立って「本堂の脇に堂を建てて鬼火を封じ込めよ」と告げた。久運はお告げのとおりにお堂を建て、鬼火を封じ込めるために高法寺の和尚が経を唱えたところ、俄かに怒った鬼神が暴れ出し、空には雷鳴轟き、周囲の大木は雷で焼き尽くされた。和尚は鬼神が誰にも供養されなかったために怨霊となった沈輪であるとし、大晦日から沈輪の命日である正月7日まで鬼会祈祷を行った。これが鬼夜の始まりとされる。

 

鬼夜は大晦日の晩に神職が燧石でとった御神火(鬼火)を本殿で護りながら天下泰平、五穀豊穣等を祈願する鬼会神事のクライマックスに行われる、追儺の祭りです。

鬼夜の流れはだいたい以下の通り。

①鬼夜の主神である玉垂宮に伝わる鬼面尊神を本殿に安置して神事を行った後、鬼面は鬼堂に渡る。

f:id:yutakana_kawa:20230704221059j:image

こちらが鬼堂

②鬼堂の神棚に鬼面を安置し、古来、鬼夜の神事を受け継いできた赤司家と川原家の人々のみが3時間ほど鬼堂に籠る。その後鬼面はまた本殿に還る。

③氏子の若集が参集して、うち二十名ほどが社前の霰川に設けられた汐井場で禊を行い、お汐井を汲んで神前に備える。

④数百名の若集が提灯、小松明をかざしながら汐井場で禊を行い、参道から社殿へ駆け上がる。これを2往復する。(シオイガキ)

⑤一番鐘を合図に境内の灯が一斉に消される。屋台の照明も消え、真暗闇の中鬼堂の前に若集が勢揃いする

⑥二番鐘の後、鬼神殿から鬼火が出て、6本の大松明に一挙に点火。

 (大松明は全長約13m、直径約1m、重さ約1.2t)

f:id:yutakana_kawa:20230704221435j:image

晦日前にJR久留米駅に展示してあった松明。実際の大松明の1/2くらいの大きさと思われます。これを見たのをきっかけに鬼夜について調べてみることに。

⑦燃え盛る紅蓮の炎の前で、赤・青の天狗面(鬼面)をつけた赤司家の演者が相対して魔を払う鉾面神事が行われる。

 「鉾取った」、「面取った」、「ソラ抜イダ」の掛け声とともに鐘や太鼓が乱打され、祭りは最高潮に。

⑧6本の大松明は若集に支えられ、神殿を時計廻りにまわる。(松明まわし)

⑨大松明が本殿裏にまわり会場が暗くなったところで、鬼役は姿を隠し、木の棒を手にしたシャグマ姿の子供らに囲まれて鬼堂を7周半まわる。

 鬼役は人の目に触れてはいけないため、麻で作った蓑ですっぽり覆われている。誰が鬼役を務めるかも一切秘密。

⑨鬼役が鬼堂をまわり終えると、一番松明から火取りを行う。火取りの後、一番松明は惣門をくぐり汐井場で火消しを行う。

 燃え盛る大松明が木造の惣門をくぐり抜ける様は鬼夜一番の見せ場なのだそう。

f:id:yutakana_kawa:20230704221157j:image

こちらが惣門

⑩一番松明の火消しの後、鬼役はシャグマの子どもや棒頭に護られて、暗闇の中密かに汐井場で禊をし、神殿に帰る。

⑪鬼役が本殿に入ると二〜六番松明は本殿・鬼堂を一周し、順次火消しを行う。

⑫大松明の火消しが終わると行事の終わりを告げる厄鐘が七・五・三と打たれ、全ての行事が終了。

 

⑦の鉾面神事に関しては、桜桃沈輪討伐の際の状況を再現しているわけですね。鬼夜の神事は1600年余りの伝統があるとされているので、その間ひたすら討伐された際の状況を繰り返し再現され続けているというのは一種の呪いのような、封じる作業を毎年更新しているような感じがします。

一連の流れとしては、鬼が改心して人々の業を背負い、禊を行うという解釈らしいのだけども。そこまでして封じられている存在が氏子の業まで背負って禊してくれるのかはちょっと疑問です。

 

討伐から300年後に鬼火が出た云々というのもかなり仏教色が強いし、1600年の伝統があるということを考えても怨霊が出る前から何かしら沈輪の御霊を鎮める儀式は行われていたのではないかと思います。それが仏教の伝来で鬼会神事になったのではないでしょうか。

御霊信仰のように、実は討伐された土蜘蛛側も神社で祀っているというケースは各地にあると思うのだけど、沈輪に関しては沈輪自身を祀ることはしなかったようで。それが高法寺の和尚の言う誰にも供養されなかったという言葉に繋がっているのか。御霊信仰の歴史ももしかすると飛鳥時代あたりからなのかも?と思ったりしました。そして千年以上にわたってここまでされる桜桃沈輪、ちょっと可哀想。

 

桜桃沈輪の館は肥前国の水上にあったとされています。現在の佐賀県大和町に水上不動尊というお寺があり、明治時代までは水上村という村があったようです。沈輪の館もこの地域にあったのではと推定されます。人が隠れられるほどの池があったということなので、それなりの豪邸だったのではないでしょうか。

土蜘蛛退治譚でよくあるのが、退治された側は当地では民に慕われ善政を敷いていたにも関わらず朝廷に従わなかったために討ち取られた、というパターンです。少なくとも沈輪に関しては玉垂宮の縁起以外で、例えば肥前国風土記等に記述はなかったように思われますし、佐賀の民話などでも聞いたことがありません。私の調べが足りないだけかもしれないけれど、沈輪に関してはあまりに資料が少なすぎるように思います。それでも朝廷が動くほどの事態であったわけなので、それなりの人数を率いていた大人物だったのではないでしょうか。桜桃沈輪という名前もなかなか一度耳にしたら忘れがたいものです。桜桃とわざわざ冠していることも、水中に隠れる忍者のような術を持っていたことも、なかなか濃いキャラクターだと思うのだけれども。

大和町の水上というか川上といえば肥前国一ノ宮である與止日女(よどひめ)神社のある地域です。

f:id:yutakana_kawa:20230709114450j:image

地図が適当すぎますが各社の位置関係がこちら。

沈輪の館のあったエリアと大善寺玉垂宮はざっくり筑後川を挟んだ向かいにある位置関係です。大善寺玉垂宮は高良大社の元宮だったとする説があり、大善寺のあたりが藤大臣の軍事拠点だったのかもしれません。大善寺の北側には御塚古墳と権現塚古墳という二つの古墳があり、考古学的には古代にこの地を納めていた水沼君の一族の墓だと考えられているそうです。ただ、御塚古墳は古くは鬼塚古墳と呼ばれていたらしく、名前だけなら沈輪の墓である可能性もあります。被葬者がいったい誰なのか、真相はわかりません。

f:id:yutakana_kawa:20230701012218j:image

こちらは高良大社の参道からの眺望。

高良大社にお参りした時に、帰りにこの景色を見て違和感を覚えました。

高良大社筑後国氏神様ですが、社殿や参道の階段は氏子の住まう筑後国に向かっているというよりは、佐賀平野、特に與止日女神社のある肥前国大和の方角を向いているように感じたからです。

大善寺玉垂宮は社殿が南向きに建っており、背後にある御塚古墳群との関係の方が際立って、肥前国との関係性は特に感じられませんでしたが、高良大社の配置に関しては何かしら意図があるように感じました。

 

與止日女神社肥前国の一ノ宮で、御祭神は與止日女命(よどひめのみこと)です。與止日女命(淀姫、世田姫とも)は神功皇后の妹であるとする説や、豊玉姫であるという伝承があります。いずれにしてもどちらかというと朝廷側か、朝廷に協力的な勢力であったと考えられます。與止日女神社も創建はかなり古く、諸々よくわかっていない神社ですが、神功皇后伝承があることからも玉垂宮や高良大社と同じ時代には存在していたと考えられます。そんな朝廷側に与する地域に沈輪の館があったというのは…なんか色々怪しいような?記紀神話も、風土記も、社伝も、色々噛み合わないような。結局のところ、文献に残っていることは勝者の歴史であるので事実とは綻びがあったりするものですが、沈輪のことも敗者の歴史として改竄されていることが多いのかもしれません。桜桃沈輪という名前も仏教色がある気もするし、もしかすると大陸の人だった可能性すらあります。どちらにせよ本当の名前はきっと別にあったのでしょう。詳しいことが何も伝わらず、1600年も鬼として封じられて人々のために禊を受けさせられているなんて、やっぱり沈輪が可哀想になってきました。

 

一つのお祭りの内容からすごく飛躍してしまったけれど、鬼夜は1600年続いているわけなので、このお祭りの中に何か沈輪に関する「本当のこと」が潜んでいるのかもしれません。

でも誰も本当のことがわからないからこそ、古代史は浪漫があるものでもありますね…。