ゆたかわ雑記

有象無象

先祖の話

柳田國男ではありません。私の父方の先祖の話です。

 

以前、Twitterに父方の祖先が山賊で猪に祟られているという件について呟いたことがありました。

その時にも、山賊というと犯罪集団にも等しい、いわば社会的には恥ずべき集団であると捉えられてもおかしくないのに、どうして先祖が山賊だなんて話がこの現代まで伝わっているのだろう?と疑問に思っていました。(きっと山賊の定義も時代によってまちまちで、当然善い人もいれば悪い人もいるものだとは思いますが)

 

年末実家に帰省した折、母にじっくり話を聞ける機会があったので記しておこうと思います。

はじめに記載しておきますが、「父方の先祖が山賊であった」ということは確定事項ではありませんでした。私の想像にも反して、結果的に捉え方によってはスピ系のお話になってしまったのですが、個人的に興味深い内容もあったので記録しておきます。

 

まず、私が父方の先祖が山賊であるという話を初めて聞いたのは、父方の親戚の誰がしかの葬儀のお手伝いで、親戚の家に集まったときでした。当時私は小学3〜4年生くらいで、前後の記憶はかなり曖昧です。父方の親戚は、人数はそれなりに多い割に我々との付き合いは薄かったもので、正直どなたのご葬儀だったのかすらはっきり覚えていません。(父方の祖父の兄弟の誰かだったとは思う。)それは葬儀の手伝いもひと段落し、親戚の女性陣が休憩していた時に聞いた話だったと記憶しています。その場にいたのは外から嫁いだ女性やその子どもたちばかりで、父方の家についてあれやこれやと噂をしているような状況でした。

その時に聞いた話をまとめると以下のような内容でした。

・父方の先祖は山賊のようなことをやっていた

・先祖は山の掟を無視し、山の神の遣いの猪を殺した挙句に碌にお祀りをしなかった。

・このため父方の家系はその猪(もしくは山の神)に代々祟られている。

・祟られるのは男児が多い。特に水難事故で亡くなる子どもが多い。

・私の兄が幼い頃に精神病棟に入院する事態が起こり、これも祟りでは…云々。

 

当時から日本の伝説や昔話などが大好きだった姉と私にとって、これらの話は聞いた時点でもかなり魅力的な話でしたが、なんとなく女性陣だけでヒソヒソと話していたこともあり、父本人に事の真偽を確認するのはなんとなく憚られて、あまり深く詮索することもありませんでした。(そんなことをフランクに聞ける父でもなかったので)本家の男児が狙われやすいという内容だったこともあり、あまり恐怖は感じていませんでした。

当時の私は「山賊」について確たるイメージも知識もなく、忍たま乱太郎に兵庫水軍の第三共栄丸さんという海賊のおじさんが登場しますが、海賊も山賊もフィールドが違うだけで同じようなものだろうと思っており、自分の先祖についても「第三共栄丸さんみたいな感じ」だと思っていました。というかぶっちゃけ山賊云々よりも、猪に祟られた家系である事の方がインパクトがありました。

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第三共栄丸さんは普通にめちゃくちゃ善良

 

年月を経て歴史諸々を学ぶうちに、山賊は(海賊も)「第三共栄丸さん」みたいなほっこりイメージの存在ではないことがわかってきました。山賊というのは、山の通行人などの金品や衣服を奪い、時には殺人も犯し、現代の観念では確実に犯罪となる所業を行なっていた存在で、当時でもおそらく一般的にも罪という認識があるからこそ賊と呼称されていたのでしょう。もちろん山賊にも、日中は農民として生活をしているとか、色々な形態があったかもしれないし、あまりイメージを固定するのも良くない気もしますが。

ただ、こうなると子々孫々には基本的に善いことしか伝えないといった人類の性質上、先祖が何百年も山賊として生計をたててきたような家系(?)でもない限り、現代までこんな話が伝わるかしら?と疑問に思っていました。

 

そこで、前置きが長くなったのですが、母に真偽のほどを確認したところ、この「父方の先祖が山賊である」という話は、父方の親戚などから聞いた話ではなく、「巫女さんの託宣によるもの」であることが判明しました。

私自身聞いた時にはなんじゃそりゃ、となりました。

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母の話によると、時は35年程前の平成初期に遡り、先に記した、私の兄が幼少期に精神病棟に入院する事態に陥る事件に端を発します。

35年前というと、私の家族はちょうど父の転勤で東京から佐賀に引っ越しをした頃でした。当時、幼稚園生であった兄は、環境の変化その他諸々が原因で精神を深く深く病み、精神科に入院する事態となったそうです。この事件は我が家にかなりの傷痕を残していて、この時まだ生まれていなかった私ですら感じる程度には、その後の家族関係にもわりとデカめな影響を与え続けています。

そんな幼い兄の入院だけでも家族にとっては大事件であるにもかからず、他にもよくないことが続いたそうで、「これは何かがおかしいんじゃないか?」と疑問に思った母方の祖父母が、伝手を頼りに評判の良い巫女さんに診てもらうことを母に提案したそうです。母方の祖父母は代々熊本の阿蘇に家があるのですが、携帯もネットも普及していない時代に人伝てに、「評判の良い巫女さん」の情報が山奥の阿蘇にまで入ってくるものなんだなということにまず驚きました。

途方に暮れていた母は藁にもすがる思いで、巫女さんに診てもらうことを決意し、彼女がいるという熊本の水俣まで祖父母と兄とを連れて訪ねたそうです。

その「評判の良い巫女さん」のこともかなり気になったので色々と母に質問したのですが、巫女さんのお宅は極々普通の民家だったそうです。巫女さん自身も特に変わったところのない普通のおばさん、といった感じの方だったと言っていました。

その巫女さんに診てもらったところ、繰り返しになる部分もありますが以下の見立てを話してくれたそうです。

・父方の先祖は山で山賊のようなことをやっていた

・山の神の遣いである猪を殺したが、山のしきたりを無視してお祀りをしてくれなかったので猪が怒り、悲しんでいる

・父方の家の者にも何度もお祀りをしてくれるように働きかけている(祟っている)があの家の者には全然伝わらない

・母方の筋はまだ話が通じそうだったので祟っている(?)

又聞きな上、母の記憶も古いのですがざっくりこんな感じの内容でした。

とりあえず原因(?)が判明したので、その場でお祓いのようなことをやり、巫女さんの助言に従って、猪の好物であるさつまいもなどの芋類と水を低いところ(猪が食べられるような位置)にしばらく供える生活をしばらく続けたところ、兄も回復し、極端に悪いことも起こらなくなったとのことでした。

この見立ての結果について、母から父にも話をしたところ、父が「そういえば親戚の中で水難事故で亡くなった子どもが何人かいる」と話していたそうで、父は父で思い当たるところがあるような風だったということでした。

基本的に余程ファンシーなイメージでもない限り先祖が山賊と聞いて喜ぶ人はいないと思うので、母もあまり深くは聞けなかったのではないかと思います。(母方は比較的由緒正しい家系で、コンプがあった父に対してはなおのこと。)父方の親族の皆さんは、信仰心とかがないわけではないのだけれど、霊感とかそういうの一切ナシ!と言われてもまあ、納得できる感じではありました。

 

ということで、私が最初に「親戚から聞いた」と思っていた話は母本人が話していた可能性もあるお話でした。まあ、母も義姉の前で私が今回ヒアリングした内容をそっくりそのまま話していたとも思えないので、実際はどうだったかわかりませんが。

結果的に真偽のほどもわからないわけですが、当時ただただ途方に暮れていた母にとってはそんな話でもどれほど救いになったことか知れません。全体的にそんなことある?と思うような話でしたし、曖昧な部分もたくさんありますが、母自身に余裕がない状況であったことも想像に難くないので致し方なかろうと思います。(だって当時の母は今の私とほとんど年齢が変わらない(!))

 

こうなると気になってくるのは父方の先祖の話よりも、水俣の巫女さんの話です。

一体何者なんでしょうか。母方の祖父は熊本県下で長らく校長を務めていたので、色々な情報が集まってきてもまぁ、おかしくはないか、とも思えますが。水俣に行けば何かわかるでしょうか。平成初期の話なので、当の巫女さんがまだご存命かどうかはちょっとあやしいです。母方の祖父母も、ついでに私の父も鬼籍に入っている今、話を聞けるのは母ひとりなのですが、おそらく水俣訪問時は祖父に頼りきりだったと思われるのでこれ以上掘ってもあまり何も出てこなさそうな気がします。

 

猪についても、末代まで祟る猪ってそれはもう山の神レベルの存在なのでは?とか(鎮西だしどうしても乙事主様を想像してしまう…)、そこまで祟っておいて、お供えで済むわけないのでは?など、仮に巫女さんの見立てが本当であったとしても疑問はいくつも浮かびます。父方の姓は熊本に多いものなので、猪がいた山もやっぱり熊本や九州内の話なのかなと想像してみたり。山賊についてももっと勉強しないといけないですね。

 

なんにせよ、どんな些細な話でも父母・祖父母が存命なうちに聞いておかないとなーーーんもかんもわからなくなるものです。却ってその方がいいこともありますが。昨年母方の祖母が他界したので尚更このことを痛感しています。せめて母からはなるべくたくさんのことを聞き取っておきたいと、思いを新たにしました。

 

 

 

 

 

 

坂越の島のこと

昨年、瀬戸内海に浮かぶ長島愛生園のクルージングツアーに申し込んだ折に、船の出発まで時間があったので、播州赤穂駅からレンタサイクルで坂越まで行ってきました。

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千種川を越えて茶臼山の麓に至ると坂越の港へ向かう街道の入り口です。

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運転者に運転者って呼びかけるのいいな。

 

坂越は北前船の寄港地として栄えた港町です。特に赤穂の塩を運ぶために大いに栄えたようです。事前にさして調べもせずにやって来ましたが、坂越のまちに入ってふと地図を見やると気になる名前の神社がありました。

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大避(おおさけ)神社です。なんだか名前だけ見ると物々しい感じがしますが、こじんまりとした住宅街の先、海に抜ける坂道の参道の突き当たりにある神社は、港町の神社然とした大変穏やかな佇まいでありました。

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お詣りを済ませて散策すると、境内には大量の絵馬が。


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大避神社のご祭神はそのまま大避大神ですが、これは秦河勝という人物を指します。この秦河勝という人物は3世紀に大陸から渡来した秦氏の人で、聖徳太子の忠臣として活躍した人物。河勝は芸事に秀でており、猿楽の始祖であるとされているそうで、観阿弥世阿弥親子や東儀家も秦河勝の末裔だと称しているのだとか。坂越には「坂越の船祭り」という瀬戸内海三大船祭りの一つにも数えられる勇壮な神事があり、大量の絵馬殿の絵馬の中には坂越の船祭りに因むものも多くありました。

芸能の神でもある秦河勝を祀る神社がなぜ聖徳太子の活躍した山城を離れて、瀬戸内海に面する坂越にあるのかというと、聖徳太子亡き後、太子の息子である山背大兄王の即位が最も有力視されていましたが、蘇我蝦夷蘇我入鹿蘇我氏の勢力に妨げられ、山背大兄王は一族郎党自害に追い込まれます。この事件を契機に豪族の力を危険視した中大兄皇子中臣鎌足によって蘇我氏は倒され、いわゆる大化の改新という天皇中心の政治体制に移行する改革運動が起こります。秦河勝はそんな政争から逃れるため、大阪の難波から虚舟(うつぼ舟とも)に乗ってこの坂越に流れ着いた、という伝説があるのだそうです。

坂越には秦河勝に関する伝説や昔話が色々と残っています。狩りの途中で休憩していた際に村人に養蚕技術を伝授したとか、身の丈5mはある大蛇を退治したとか、治水技術を伝えて農地を開拓したとか。伝説に纏わるスポットも坂越周辺の其処ここにあるようです。様々な伝説から、秦河勝秦氏の持つ大陸由来の技術や知識を駆使して地域の発展に貢献し、地元民にも慕われていたという姿が浮かび上がります。

そんな坂越に残る伝承の中で大変興味深かったのが、大避神社の参道の先の海上に浮かぶ島「生島」が秦河勝墓所であり、島全体が今だに禁足地とされているということです。

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生島は坂越の船祭りの際に御旅所になる時以外、誰も上陸できないそうです。古来から大避神社の神地として守られたことにより、生島の樹林は原始の状態を保ち、国の天然記念物にも指定されています。

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生島全景。島の左手の建物が船祭りの際の船倉のようです。島内には秦河勝の墓とされる古墳もあります。

大避神社には秦河勝自ら彫ったかまたは聖徳太子から賜ったとされる1300年前の蘭陵王の面が宝物として伝わっているそうで、雅楽との関わりが深いようです。坂越の船祭りも和船の船上で雅楽が奏でられる雅やかなお祭りなのだそうで、叶うならばまた祭禮の折に再訪したいところ。

坂越の船祭りは秦河勝の伝説に因んで江戸時代初期から始まったものだそうで、比較的新しいお祭りなので、果たして本当に秦河勝が虚舟で流れ着いたものなのかどうか、定かではありません。

大避神社は漢字を変えて、京都太秦にも同じ読みの大酒神社という神社があります。太秦秦氏の本拠地であり、大酒神社には秦氏族の祖神である秦始皇帝弓月君・秦公酒が祀られています。大避神社も赤穂や相生あたりに秦氏の一族が住み着いたことから秦氏氏神として勧請されたものなのかもしれません。そんな秦氏氏神が歴史上のスーパースターである秦河勝の貴人伝承と結びついただけで、実際に秦河勝が坂越に来たという事実はないのではないか、という説もあるようです。

 

ともあれ、仮に虚舟伝承が本当で、生島に眠っているのが秦河勝その人だとすれば、大切な主君を失った忠臣のセカンドライフとして、坂越での余生もなかなか悪いものではなかったのではないかと、晴天でどこまでも穏やかな坂越港を眺めながら想ったりしました。

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坂越、こんなおもろ伝承がある場所だと思ってもみなかったので完全に不意打ちでしたが、短い時間で大変に楽しめました。やはり寄港地にはドラマがあります。

鬼夜のこと

日本三大火祭りというものがあるのだそうです。

日本三大火祭りに関しては、三大なんとかにありがちな、書いてあるサイトによってラインナップがまちまち、というカオスな状態なので一体どれが正しいのやら全くわかりませんが、色々なサイトを眺めてみると、私の地元に程近い久留米市大善寺玉垂宮の鬼夜はわりと安定してランクインしている印象でした。

 

久留米はご近所ながら私は鬼夜自体を生で見たことはありませんが、鬼夜について少し調べてみて、帰省の折に実際に玉垂宮にもお参りしたので書き置きしておこうと思います。とても独特なお祭りです。

 

そもそも玉垂宮自体、他地域の方々には馴染みのない神社なのではないかと思います。

玉垂宮と書いて「たまたれぐう」と読みます。

久留米、筑後エリアには玉垂宮と言うお宮は大小様々にたくさんあります。地元の人たちもご祭神がどんな神様か、あまり気にしていないのではないでしょうか。かく言う私も神社や古代史に興味を持つまで全く気にしていませんでした。そのくらいなんか当たり前に、そこここにたくさん祠の在る土着の氏神様です。

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こちらは高良大社の本殿。

大善寺玉垂宮の御祭神はそのまま、玉垂命(たまたれのみこと)です。別名で藤大臣(とうのおとど)、高良(こうら)大明神とも称するとされています。玉垂宮には玉垂命のほか、八幡大神住吉大神も祀られています。大きな神社では久留米市内には大善寺玉垂宮のほか、高良大社という筑前後国一ノ宮にも同じく玉垂命が祀られています。つまりこの地域の一ノ宮の御祭神が玉垂命ということで、筑後国における玉垂命の重要度が伝わるのではないでしょうか。

 

玉垂宮の創建は公式HPによると「謎が多く明らかでない」そうです。ただ、日本武尊の父である景行天皇の御代の創建と考えられており、とにかくなんかめちゃくちゃ古いっぽいぞ!という感じです。

玉垂命の別名、藤大臣は神功皇后三韓征伐の際に大功があったとされる人物。(人物とするとこの時代あるあるで寿命が長過ぎちゃうので人物というか役職or一族?)その後も朝廷に重用され、仁徳天皇の勅命で筑紫の国を平定してこの地で没した後、高良玉垂宮と諡されたと伝わります。

ただし玉垂命については記紀には載っていない神なので玉垂命が本当は誰なのか、正直よくわかっておらず、諸々論争があるようです。

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こちらが大善寺玉垂宮。年末、鬼夜開催前のタイミングだったので提灯が飾られていました。

 

鬼夜は毎年1月7日の夜に開催されます。正月後のイベントなので年末年始に帰省する私にはこの先も実際に見物に行くのは厳しそう。

境内には見物客用のスタンドが設営されていました。当日の賑いが想像されます。

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鬼夜の由来は、この地を荒らし、人々を苦しめていた賊徒を、勅命を受けた藤大臣が討伐したという土蜘蛛退治譚にあります。

あらずじは大体以下の通りです。

肥前国水上に「桜桃沈輪(ゆすらちんりん)」という悪党がおり、当地を荒らし、人々を苦しめていた。この地を治めていた筑紫の豪族、葦連は困り果てて朝廷に沈輪の討伐を願い出た。これを受けて仁徳天皇は藤大臣に賊徒討伐の勅命を下した。命を受けてやってきた藤大臣は、多数の兵を率いて沈輪の館を攻め立てたが、はて沈輪の行方がわからない。藤大臣は沈輪が池に潜ったとみて、大松明を焚かせ池に長鉾を突き立てさせたところ、たまらず沈輪は水上に顔を出し、大臣がその首を討った。沈輪の首は鬼の形相で天高く舞い上がったが、それを大臣は八目矢で打ち落とした。沈輪の生首は大臣の命令で堆く積まれた茅で焼かれた。これが368年(仁徳天皇56年)1月7日のことであったという。

藤大臣はこの功績が認められ、前述のとおり筑後を平定して玉垂命として祀られるようになります。

しかし、それから約300年後、玉垂宮と隣接する御船山高法寺の上空に、鬼火が現れ、人々が恐れるようになった。葦連の子孫である吉山久運が玉垂宮に参拝したところ、藤大臣が夢枕に立って「本堂の脇に堂を建てて鬼火を封じ込めよ」と告げた。久運はお告げのとおりにお堂を建て、鬼火を封じ込めるために高法寺の和尚が経を唱えたところ、俄かに怒った鬼神が暴れ出し、空には雷鳴轟き、周囲の大木は雷で焼き尽くされた。和尚は鬼神が誰にも供養されなかったために怨霊となった沈輪であるとし、大晦日から沈輪の命日である正月7日まで鬼会祈祷を行った。これが鬼夜の始まりとされる。

 

鬼夜は大晦日の晩に神職が燧石でとった御神火(鬼火)を本殿で護りながら天下泰平、五穀豊穣等を祈願する鬼会神事のクライマックスに行われる、追儺の祭りです。

鬼夜の流れはだいたい以下の通り。

①鬼夜の主神である玉垂宮に伝わる鬼面尊神を本殿に安置して神事を行った後、鬼面は鬼堂に渡る。

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こちらが鬼堂

②鬼堂の神棚に鬼面を安置し、古来、鬼夜の神事を受け継いできた赤司家と川原家の人々のみが3時間ほど鬼堂に籠る。その後鬼面はまた本殿に還る。

③氏子の若集が参集して、うち二十名ほどが社前の霰川に設けられた汐井場で禊を行い、お汐井を汲んで神前に備える。

④数百名の若集が提灯、小松明をかざしながら汐井場で禊を行い、参道から社殿へ駆け上がる。これを2往復する。(シオイガキ)

⑤一番鐘を合図に境内の灯が一斉に消される。屋台の照明も消え、真暗闇の中鬼堂の前に若集が勢揃いする

⑥二番鐘の後、鬼神殿から鬼火が出て、6本の大松明に一挙に点火。

 (大松明は全長約13m、直径約1m、重さ約1.2t)

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晦日前にJR久留米駅に展示してあった松明。実際の大松明の1/2くらいの大きさと思われます。これを見たのをきっかけに鬼夜について調べてみることに。

⑦燃え盛る紅蓮の炎の前で、赤・青の天狗面(鬼面)をつけた赤司家の演者が相対して魔を払う鉾面神事が行われる。

 「鉾取った」、「面取った」、「ソラ抜イダ」の掛け声とともに鐘や太鼓が乱打され、祭りは最高潮に。

⑧6本の大松明は若集に支えられ、神殿を時計廻りにまわる。(松明まわし)

⑨大松明が本殿裏にまわり会場が暗くなったところで、鬼役は姿を隠し、木の棒を手にしたシャグマ姿の子供らに囲まれて鬼堂を7周半まわる。

 鬼役は人の目に触れてはいけないため、麻で作った蓑ですっぽり覆われている。誰が鬼役を務めるかも一切秘密。

⑨鬼役が鬼堂をまわり終えると、一番松明から火取りを行う。火取りの後、一番松明は惣門をくぐり汐井場で火消しを行う。

 燃え盛る大松明が木造の惣門をくぐり抜ける様は鬼夜一番の見せ場なのだそう。

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こちらが惣門

⑩一番松明の火消しの後、鬼役はシャグマの子どもや棒頭に護られて、暗闇の中密かに汐井場で禊をし、神殿に帰る。

⑪鬼役が本殿に入ると二〜六番松明は本殿・鬼堂を一周し、順次火消しを行う。

⑫大松明の火消しが終わると行事の終わりを告げる厄鐘が七・五・三と打たれ、全ての行事が終了。

 

⑦の鉾面神事に関しては、桜桃沈輪討伐の際の状況を再現しているわけですね。鬼夜の神事は1600年余りの伝統があるとされているので、その間ひたすら討伐された際の状況を繰り返し再現され続けているというのは一種の呪いのような、封じる作業を毎年更新しているような感じがします。

一連の流れとしては、鬼が改心して人々の業を背負い、禊を行うという解釈らしいのだけども。そこまでして封じられている存在が氏子の業まで背負って禊してくれるのかはちょっと疑問です。

 

討伐から300年後に鬼火が出た云々というのもかなり仏教色が強いし、1600年の伝統があるということを考えても怨霊が出る前から何かしら沈輪の御霊を鎮める儀式は行われていたのではないかと思います。それが仏教の伝来で鬼会神事になったのではないでしょうか。

御霊信仰のように、実は討伐された土蜘蛛側も神社で祀っているというケースは各地にあると思うのだけど、沈輪に関しては沈輪自身を祀ることはしなかったようで。それが高法寺の和尚の言う誰にも供養されなかったという言葉に繋がっているのか。御霊信仰の歴史ももしかすると飛鳥時代あたりからなのかも?と思ったりしました。そして千年以上にわたってここまでされる桜桃沈輪、ちょっと可哀想。

 

桜桃沈輪の館は肥前国の水上にあったとされています。現在の佐賀県大和町に水上不動尊というお寺があり、明治時代までは水上村という村があったようです。沈輪の館もこの地域にあったのではと推定されます。人が隠れられるほどの池があったということなので、それなりの豪邸だったのではないでしょうか。

土蜘蛛退治譚でよくあるのが、退治された側は当地では民に慕われ善政を敷いていたにも関わらず朝廷に従わなかったために討ち取られた、というパターンです。少なくとも沈輪に関しては玉垂宮の縁起以外で、例えば肥前国風土記等に記述はなかったように思われますし、佐賀の民話などでも聞いたことがありません。私の調べが足りないだけかもしれないけれど、沈輪に関してはあまりに資料が少なすぎるように思います。それでも朝廷が動くほどの事態であったわけなので、それなりの人数を率いていた大人物だったのではないでしょうか。桜桃沈輪という名前もなかなか一度耳にしたら忘れがたいものです。桜桃とわざわざ冠していることも、水中に隠れる忍者のような術を持っていたことも、なかなか濃いキャラクターだと思うのだけれども。

大和町の水上というか川上といえば肥前国一ノ宮である與止日女(よどひめ)神社のある地域です。

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地図が適当すぎますが各社の位置関係がこちら。

沈輪の館のあったエリアと大善寺玉垂宮はざっくり筑後川を挟んだ向かいにある位置関係です。大善寺玉垂宮は高良大社の元宮だったとする説があり、大善寺のあたりが藤大臣の軍事拠点だったのかもしれません。大善寺の北側には御塚古墳と権現塚古墳という二つの古墳があり、考古学的には古代にこの地を納めていた水沼君の一族の墓だと考えられているそうです。ただ、御塚古墳は古くは鬼塚古墳と呼ばれていたらしく、名前だけなら沈輪の墓である可能性もあります。被葬者がいったい誰なのか、真相はわかりません。

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こちらは高良大社の参道からの眺望。

高良大社にお参りした時に、帰りにこの景色を見て違和感を覚えました。

高良大社筑後国氏神様ですが、社殿や参道の階段は氏子の住まう筑後国に向かっているというよりは、佐賀平野、特に與止日女神社のある肥前国大和の方角を向いているように感じたからです。

大善寺玉垂宮は社殿が南向きに建っており、背後にある御塚古墳群との関係の方が際立って、肥前国との関係性は特に感じられませんでしたが、高良大社の配置に関しては何かしら意図があるように感じました。

 

與止日女神社肥前国の一ノ宮で、御祭神は與止日女命(よどひめのみこと)です。與止日女命(淀姫、世田姫とも)は神功皇后の妹であるとする説や、豊玉姫であるという伝承があります。いずれにしてもどちらかというと朝廷側か、朝廷に協力的な勢力であったと考えられます。與止日女神社も創建はかなり古く、諸々よくわかっていない神社ですが、神功皇后伝承があることからも玉垂宮や高良大社と同じ時代には存在していたと考えられます。そんな朝廷側に与する地域に沈輪の館があったというのは…なんか色々怪しいような?記紀神話も、風土記も、社伝も、色々噛み合わないような。結局のところ、文献に残っていることは勝者の歴史であるので事実とは綻びがあったりするものですが、沈輪のことも敗者の歴史として改竄されていることが多いのかもしれません。桜桃沈輪という名前も仏教色がある気もするし、もしかすると大陸の人だった可能性すらあります。どちらにせよ本当の名前はきっと別にあったのでしょう。詳しいことが何も伝わらず、1600年も鬼として封じられて人々のために禊を受けさせられているなんて、やっぱり沈輪が可哀想になってきました。

 

一つのお祭りの内容からすごく飛躍してしまったけれど、鬼夜は1600年続いているわけなので、このお祭りの中に何か沈輪に関する「本当のこと」が潜んでいるのかもしれません。

でも誰も本当のことがわからないからこそ、古代史は浪漫があるものでもありますね…。

 

 

 

前玉の古墳群 その3

 

ブログ三日坊主すぎ問題。

前回ブログ書いてから1年経っている…。

 

さきたま古墳群、次に見学したのは将軍山古墳。

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美しさすら感じられる前方後円墳でした。

将軍山古墳には展示館があって、最初の訪問時には時間外だったので後日再訪しました。

6世紀後半に築造されたと推定されているとのこと。この古墳にも造出し部が設けられている。

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こちら展示館。発掘された石槨が復元展示されていました。

現在の将軍山古墳は発掘調査の上復元されたものなんだそうです。復元前はちょうど前方後円墳を真ん中でスパっと切断した半分くらいしか残っていなかったらしい。将軍山古墳も他のさきたま古墳群の古墳と同じく埋立用に土を持ってかれてる。

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将軍山古墳の特徴は馬具類が豊富に出土していることで、馬冑の出土は全国で2例目だったとのこと。こういった出土品から古墳時代の馬の装いを知ることができるので貴重。

展示館の中は基本的に撮影禁止だったけれど、石槨の再現展示は結構見応えありました。日本は酸性土壌だから土中にある有機物は綺麗に分解されて何も残らないわけだけれど、これだけ石に囲まれているから千年経っても副葬品が残るわけですね。

副葬品には金製品も多く、そもそも6世紀に馬冑とともに葬られているわけだから相当に有力な人物だったのでしょう。

 

将軍山古墳の展示館見学後は前回も行ってはいたけれど前玉神社を再訪。

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前玉神社は大変興味深い神社で、浅間塚古墳という円墳の墳頂にお社が建立されています。鳥居の写真の奥のこんもりした山が古墳でありお社です。

前玉神社自体は延喜式神名帳にも記載のある大変古い神社。創建年代は不詳。浅間塚古墳の築造は、前玉古墳群の築造が終わりを迎える7世紀前半頃と考えられているそう。社殿は前玉古墳群を拝するような方向に建てられている。

もしかすると前玉神社は古墳から神社あるいは仏閣へと、信仰のあり方が変わる転換期にちょうど築かれたのかもしれない。古墳の上に神社が建っている例は国内に他にもあると思うけれど、とてもおもしろいので全国どんどんお詣りしていきしたい所存。

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階段を登った上に立派なお社があります。

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彫刻が思いがけず細かくてこれまた見応えがありました。モチーフは謎。解説欲しい。

解説なんもないからわからなかったけれど、指定文化財とかにはなっていないようだから比較的新しいものなのかもしれない。

境内に猫が多いからか猫の絵馬やお守りも販売されてました。最近多いね。

前玉神社の御祭神は以下の二柱。

・前玉彦命(さきたまひこのみこと)
・前玉比売命(さきたまひめのみこと)

誰やねんて感じですが、前玉比売に関しては古事記に登場するらしい。

古事記の前玉比売は、天之甕主神(アメノミカヌシノカミ)の娘であり、

大国主神の子孫である速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミノカミ)との間に甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)を生んだとされている。

なお、前玉彦に関する記述は記紀には一切ないらしい。単純に考えれば二柱は夫婦神になるので前玉神社も夫婦円満や縁結びをご利益にしている。

古事記をベースにすれば前玉彦=速甕之多気佐波夜遅奴美神になるのだけれどなんかピンとこない。基本的にこれらの神々は古事記にしか登場しないことと、おそらくみんな農耕神であろうということが共通している。(甕は古代では重要な農具であるため)

そして大国主の子孫であることから出雲系の神々ということになるのだけれど、埼玉で出雲系?

古代人の行動範囲は本当に侮れないのでありえない話ではないのだけれども。もしそうなら稲荷山古墳の金錯銘鉄剣にも書いてありそうだし。中央と出雲の関係を考慮して敢えて記載しなかった?出雲の方にももっと資料が残ってそうなものだけれど。色々と妄想が膨らみます。

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前玉古墳は御手水舎の彫刻も立派です。

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季節ごとにお花が変わっていて可愛らしい。

前玉神社を参拝したあとは埼玉県立さきたま史跡の博物館へ。

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埼玉県名発祥の碑も拝んできました。
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さきたま史跡の博物館では国宝の金錯銘鉄剣(本物!!!)も拝観できます。

写真撮影OKだったみたいだけどなんか遠慮しちゃって全然写真撮らずに出てきてしまった。

たまにこういうことある。

どちゃどちゃに国宝を間近で拝めるのに入館料200円なのでみんな行った方がいいですね。

いつでも国宝拝める環境になってるのって本当に有難いことです。

帰りに近くの茂美の湯に入って帰宅。

茂美の湯、ちゃんと温泉なのに休日も比較的空いてて、露天風呂がとても広くていい施設でした。

また埼玉ドライブした時に寄ろう。

前玉の古墳群 その2

さきたま古墳群、続いては有名古墳である稲荷山古墳です。

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なんとこの古墳も登れちゃう。巨大古墳に登りたいって需要、一定数あるのかな。

初っ端の古墳が2つとも登れたのでさきたま古墳群の古墳は全部登れるのかと思いきや、古墳群の中で登頂できるのは丸山墓古墳と稲荷山古墳だけだった。というか、埼玉の古墳で登れるように整備されているのはこの2つだけらしい。

稲荷山古墳は全長120mの前方後円墳であり、堀は二重になっている。墳丘と中堤にそれぞれ「造出し」と呼ばれる張出し部がある。造出しも二重にあるのだ。5世紀後半の築造と考えられていて、さきたま古墳群の中では最初に築かれた古墳なんだそうだ。前方部は干拓で土取りが行われ消失していたが、復元整備によって当時に近い形に整備されている。稲荷山古墳は仁徳天皇陵と治定されている大仙陵古墳と墳形が類似していて、大仙陵古墳を模した古墳はこのほか全国でも例が少なく、造墓者がかなりの有力者であったことが推定される。造出しを備えた古墳も関東ではさきたま古墳群のみであり、このほかは近畿圏に集中していることから、造墓者がヤマト朝廷からも重要視されていた人物であったということが古墳の形状からも窺える。造出しでは葬送に関する祭祀が行われていたと考えられているんだとか。

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昭和43年(1968)の発掘調査で2つの埋葬施設が発見され、多くの副葬品が発見された中に、後に国宝に指定され歴史の教科書にも載っていた金錯銘鉄剣が含まれていました。

金錯銘鉄剣には表裏合わせて115文字に及ぶ銘文が金象嵌で刻まれていた。以下はwikiからの引用です。

(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

(表)辛亥年7月に記す。乎獲居臣(ヲワケの臣)。上祖の名は意富比垝(オホヒコ)。その子の名は多加利足尼(タカリノスクネ)。その子の名は弖已加利獲居(テヨカリワケ)。その子の名は多加披次獲居(タカヒシワケ)。その子の名は多沙鬼獲居(タサキワケ)。その子の名は半弖比(ハテヒ)。

(裏)その子の名は加差披余(カサヒヨ)。その子の名は乎獲居臣(ヲワケの臣)。代々、杖刀人首(護衛隊長)として大王に仕え、今に至る。獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)の朝廷が斯鬼宮にある時に、私は大王が天下を治めるのを補佐し、この百練の利刀を作らせ、我が奉事の根源を示すものなり。

亥年は西暦471年というのが定説であり、第21代の雄略天皇の御代であることから、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)は雄略天皇とする説が有力なんだそうです。朝廷のあった斯鬼宮は、諸説あるようだが現在の奈良県桜井市泊瀬朝倉宮を指すとされている。

同様に銘文のある鉄剣が、熊本県玉名郡の「江田船山古墳」からも出土していて、こちらは銀象嵌の銘文で、文字の欠損が多いが同じく獲加多支鹵大王の名が刻まれていると推定されることから、当時のヤマト王権の力が九州から関東にまで及んでいた証左と考えられている。

これらの鉄剣が発見されたことにより、雄略天皇は考古学上で存在が確認された最古の天皇とされているということで、稲荷塚古墳は考古学的に非常に重要な史跡と言える👏

そんな貴重な古墳が登頂できるように整備されているわけですが。

稲荷山古墳には粘土槨と礫槨という二つの埋葬施設が発掘されており、後円部の頂部に復元模型が設置されていました。

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礫槨・粘土槨のいずれも後円部中央からややずれた位置にあり、さらに副葬品の編年から古墳の築造時期よりも新しい6世紀前半に位置付けられるため、中央部にこの古墳の真の造墓者が葬られていると考えられているそうです。金錯銘鉄剣は礫槨の方から出土。

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鉄剣のほか、神獣鏡、轡、ヒスイ勾玉、銀杏葉、帯金具など、副葬品からも被葬者がかなりの有力者であったであろうことが窺えます。粘土槨は盗掘の被害を受けているため副葬品は少ないらしいが、礫槨に比べると元々簡素な造りであったっぽい。僅かに残っていた副葬品は武器や馬具など、これらも礫槨出土品と共に国宝に指定されています。

礫槨の被葬者である乎獲居臣(ヲワケの臣)ですらこれらの有力者しか持つことのできないような貴重な副葬品と共に葬られているというのに、この古墳の真の主の埋葬施設は一体どのような姿なのだろうか。というか真の墓の主とは一体誰なのか…ヲワケが追葬されているようなかたちになっていることを考えると親子等の近親者か?親子だとすると真の造墓者はヲワケの父の加差披余(カサヒヨ)であると考えられる。あるいはかなりの有力者であったことが推定されるヲワケに単独で古墳が築造されなかったことを考えると、真の主が元々この地方を治める豪族で、ヲワケの方が侵略者というか、真の被葬者に次いでこの地方を治める正統性を持っていなかった者である可能性もある。最初から造出し付きの前方後円墳であったことを思えば、真の主も元々ヤマト朝廷とかなり縁の深い人物である可能性が高いが…いずれにしても更なる発掘調査が待たれます。

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礫槨の被葬者、ヲワケについてはヤマト王権とかなり関係の深い人物であったことは確かだけれど、その出自についてはやはり諸説あってはっきりしていない。主な3つの説もwikiから引用。

1.ヲワケを畿内ヤマト王権の有力首長とし、礫槨被葬者はその部下で、この鉄剣を下賜されたとする説。オオヒコが阿倍臣・膳臣の祖であることから両氏の内の一人とみる。
2.ヤマト王権の有力者であるが、東国に派遣されて礫槨の被葬者になったとする説。
3.ヲワケをヤマト政権に連合していた東国の首長とし、礫槨の被葬者とする説。

そもそも礫槨の被葬者がヲワケ自身ではない可能性もあるということ。部下が追葬された可能性は確かにあるかもしれないが、果たして元の造墓者の槨の上にその部下の槨を築くだろうか?

日本書紀によると、西暦534年頃の安閑天皇の御代に、笠原使主(カサハラノオミ)が同族の小杵(オキ又はオギ)と武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性分が険悪で、密かに上毛野君小熊(カミツケノノキミオグマ)の力を借りて笠原使主を殺害しようとしていたが、謀を知った使主は京に逃げ出して朝廷に助けを求めた。朝廷は使主を武蔵国造と定め、小杵を誅した。これを受けて使主は朝廷に4ヶ所の屯倉を差し出したという。この一連の出来事を武蔵国造の乱といい、日本書紀に記されてはいるものの、伝承性が強いため史実か否かははっきりしていない。

笠原使主は埼玉県笠原(現:鴻巣市笠原)に拠点があったとされている。さきたま古墳群との関連性については以下の説もある。(以下wikiより)

何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する中型前方後円墳が出現したこと、鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラとも読めることから、笠原を本拠としたとされる武蔵国造の墓であるとする説もある。

武蔵国造の乱については、小杵の性分をわざわざ悪と記しているところなど、日本書紀の書き振りが大分怪しく感じられる。西暦527年とされる筑紫君磐井の乱の数年後の出来事と考えられるため、元になった同様の反乱があったのではないかという説もあるそうだ。小杵は敗死したが、一方で小杵に協力したとされる小熊は処分されたという記載がなく、上毛野は東日本では圧倒的な古墳築造地帯であってその後も栄えていることからも、武蔵国造の乱が日本書紀に記載の通りの内容であるとは到底思えない。単純に武蔵国造の座を争った一族間の対立というだけでなく、ヤマトに協力的な使主と、いわゆる「まつろわぬ」者であった小杵との対立だったではないか。

それにしてもさきたまの地に突如として巨大古墳群が築かれたことは確かで。日本書紀の記載通りなら、年代的に稲荷山古墳の築造年は使主が武蔵国造に指定される以前ということになり、武蔵国造に定められる前から朝廷からこれだけの力を与えられた豪族がいたということは、この地がヤマトにとってどれだけ重要であったのか、この地を掌握することにどれほどの旨味があったのかということを考えさせられました。

武蔵国は近畿に宮のあった朝廷からすれば東北地方への玄関口でもあり、東北は何度も東征が行われている蝦夷の地。5世紀頃には関東にも蝦夷が居住していたというから、武蔵国蝦夷に対して睨みを効かせる上で重要な拠点だったのか。

金錯銘鉄剣に記されたヲワケの上祖である意富比垝(オホヒコ)は、日本書紀古事記にそれぞれ記載のある四道将軍の一人である、大彦命(オオヒコノミコト)に比定する説がある。大彦命は第8代の孝元天皇の第1皇子であるとされている。日本書紀によると、崇神天皇の御代に北陸に派遣されており、東海に派遣された武渟川別、西道に派遣された吉備津彦命丹波に派遣された丹波道主命とともに四道将軍と称される。古事記では四道将軍としての派遣ではないものの、高志(越国)に派遣されている。なお、東海に派遣された武渟川別大彦命の子とされる。

意富比垝が大彦命を指すかどうかは色々な説があるようだけれど、もしそうならヲワケは皇孫にあたら人物で、関東ではさきたま古墳群にのみ大王級の古墳に築かれる造出しがあることにも納得がいくような気もする…ヲワケの時代にはすでに四道将軍も伝説級の存在だったであろうことを考えるとやはり箔付に使われただけであるような気も…。

 

ちなみに稲荷山古墳がなぜ稲荷山というのかというと、現在は撤去されているものの元々は本当に墳頂に稲荷社が祀られていたからなんだそうです。従前は今のようにわざわざ綺麗に草刈りされてたとは思えないので、稲荷社のある小山で稲荷山か。神社が古墳の上に建っているケースは各所で見られ、御祭神が被葬者の豪族であったりする場合もあるけれど、稲荷山古墳に関して言えば稲荷社を祀るというのは被葬者とは全く関係なさそうにも思える。稲荷社は五穀豊穣の神であるから、被葬者が地域の豪族として崇拝され地主神のように考えられていたならば、その者を神として五穀豊穣を願うのは自然なのかもしれない。後年になって稲荷神と混同されたとか。稲荷山古墳の稲荷社がいつから祀られていたものなかはわからないが、稲荷神は稲作の神であることから渡来人の信仰であるとも考えられるし、被葬者の出自について何かヒントがあったりするのかも…?何かこの地域限定の伝説とか伝承とか残っていたりしないのかしら…

 

一つの古墳でこれだけのことが妄想夢想できるのだからやはり古墳巡りは楽しい。これだけ色々書いてきたけれど、さきたま古墳群はたまたま時間があって寄り道できただけで、実は古墳公園併設の埼玉県立さきたま史跡の博物館や将軍塚古墳の展示館には全く入館できていない。なのでまた時間を見つけて、今度は開館時間にたどり着けるようにドライブにいく必要性が生じてしまいました。

前玉の古墳群 その1

他の都道府県名にも様々な由来譚があるように、例に漏れず埼玉県の県名由来も諸説あるようで。

今の埼玉県のエリアは明治2年大宮県が設置されたが、わずか8ヶ月後に浦和県に改称されたそう。

その後、明治4年11月14日に廃藩置県で忍県、岩槻県、浦和県が併合されて埼玉県が誕生した。現在の埼玉県の県域には20もの県が混在していたという。(多すぎ)

当時は江戸時代の幕府領や旗本の知行地を受け継いだままのところが多くあり、小さな県が乱立していたようす。

ちなみにこの11月14日が現在の「埼玉県民の日」となっているんだとか。

最終的には一時期群馬県編入されていた入間県が合流したり、各所いろいろな動きがなんやかんやあって現在の埼玉の形になったらしい。わりと単純な成り立ちの佐賀県出身者からすると、埼玉県の成り立ちは意外と複雑でなかなかドラマチックで全然頭に入ってこない…

このように大小の県が統合された成り立ちをもつ埼玉県だが、明治の廃藩置県で埼玉という地名が選ばれたのは、当時の埼玉県に属していた岩槻エリアに一時的に県庁を置くことが決まっていたからなんだそうです。

開拓地などを除いて、他の都道府県名も多くが既にその地方で使われている地名を県名として採用している例が多いと思うけれど、埼玉も同じようである。

では、既に存在していた「埼玉」という地名にはどんな由来があるのだろうか。

「埼玉」地名の発祥地は「埼玉郡埼玉村(現:行田市大字埼玉)であるという。

奈良時代万葉集には「前玉・佐吉多万(さいたま)」の名で見られ、平安時代の「和名類聚抄」では「埼玉・佐伊太末(さいたま)」の郡名が見られる。これらが転じて「さいたま」になったとされている。

この「さいたま」の元になった「さきたま」には語源が諸説あり、

  1. 「さきたま(前多摩・先多摩)」で武蔵國多摩郡の奥にある土地であるという意
  2. 行田市付近が湿地帯であり「さき(前)」「たま(湿地の意)」の意
  3. 幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂(さきみたま)」を由来とする説

などがあげられるがはっきりとしたことはわかっていない。少なくとも言えるのは古代から続くかなり古い地名であるということだ。

地名発祥の地である行田市の当地には、さきたま古墳群がある。

さきたま古墳といえば、金象嵌で文字が刻まれた鉄剣が発掘されたことで有名な稲荷山古墳が属する古墳群である。

そんなさきたま古墳にドライブのついでに先日立ち寄ってみました。

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さきたま古墳には稲荷山古墳のほか、下記の古墳が密集している。

丸墓山古墳、二子山古墳、将軍山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳、愛宕山古墳

5世紀末〜7世紀中頃にかけて築かれた古墳だそうだ。大きさは様々だがほとんどが前方後円墳であり、丸墓山古墳のみが円墳である。

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そんな丸墓山古墳にはなんと登頂できる。

群馬のかみつけの里博物館でも思ったけれど、登頂できるように整備されている古墳が関東にはいくつもあっておもしろい。

直径105mあり円墳としては国内外最大級、直径もさることながら高さも約17mあり、さきたま古墳群の中でもっとも高く、当然眺望も良い。

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なんかもう、めちゃくちゃ夏。

きちんと階段が付いて登れるようになったのは現代に入って公園として整備されたと思われるが、この眺望を求めて丸墓山古墳に登ったのは現代人だけではないらしい。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、同じく行田市にある忍城を水攻めする際に、この古墳の頂上に本陣を張った。

たった5日で28kmの堤を築いたという伝説の石田堤の逸話がある場所だ。

実際には元々荒川の自然堤防を利用して築いた堤でもあり、また水攻めを行いながら補強工事を行なっていたということで、完全に5日で築堤したわけではないようだが、地の利を活かして短期間で堤を築いたこということは違いないようで、昔の人の知恵と技術には驚かされるばかりだ。三成すごい。

三成の逸話として石田堤の伝説は知っていたけれど、それが埼玉の話とは知らなかったもので不意に史跡に出会えて嬉しい。

古墳の上に陣を張るなんて罰当たりな気もしてしまうが、一方で、開発によって壊してしまったり、古墳から土を持っていったり、現代の私の感覚からすると大胆だなと思うようなことも歴史の中では平気で、あらゆる地域で行われている。もちろん盗掘もそうだ。

長い歴史の中で開発等によって既に失われた古墳というのは多々あると思うが、現代までに残っている古墳について人々はどのような感覚を持って接してきたのだろうか。

既に失われてしまった古墳のことを思うと史跡を残す意味ではとんでもないことだけれど、古墳を崩したり利用するという行為の中にも確実に、これまでの歴史の中で人々の生活の営みがあるのだと思うとなんだかおもしろい。

罰当たりだと思いながらものっぴきならない事情でそうしたのか、それで何か起これば呪いだ、祟りだなんて騒ぎになり、何もなければそのままか。

そもそも被葬者が誰なのか、それが墓なのかどうかということすら、地域の伝承の中で伝わっている場合もあれば、全く何もわからなくなっている場合もあるだろう。

それでも現代まで古墳が残っている、残されてきているというのはやはりおもしろいことだなと思う。

ちなみに先の丸山墓古墳も、埋葬施設については未発掘のため詳しいことはわかっていないらしい。よくわからないままに古墳として整備して、さらに階段までつけて登れるようにしてあるのほんとおもろい。全体的にさきたま古墳群の他の古墳も、未発掘のものが多いらしく結局なんかよくわかっていないようで、よくわからないままに世界遺産登録を目指しているのもさらにおもろい。

 

さきたま古墳もかつては、現在残っている大型古墳の周りに35基の円墳と1期の方墳があったそうだが、昭和初期の近隣沼地の干拓で土を供出させられて取り壊されてしまったそうだ。

そう考えると本当に規模の大きな古墳のようだ。鉄剣などの貴重な埋葬品があることも考えると、相当力を持った豪族だったのだろう。

現在残っている古墳群だけでも十分大きいのだけど。

色々書いたけれど、まだ古墳1基についてしか書けていないので続きます。

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