昨年、瀬戸内海に浮かぶ長島愛生園のクルージングツアーに申し込んだ折に、船の出発まで時間があったので、播州赤穂駅からレンタサイクルで坂越まで行ってきました。
千種川を越えて茶臼山の麓に至ると坂越の港へ向かう街道の入り口です。
運転者に運転者って呼びかけるのいいな。
坂越は北前船の寄港地として栄えた港町です。特に赤穂の塩を運ぶために大いに栄えたようです。事前にさして調べもせずにやって来ましたが、坂越のまちに入ってふと地図を見やると気になる名前の神社がありました。
大避(おおさけ)神社です。なんだか名前だけ見ると物々しい感じがしますが、こじんまりとした住宅街の先、海に抜ける坂道の参道の突き当たりにある神社は、港町の神社然とした大変穏やかな佇まいでありました。
お詣りを済ませて散策すると、境内には大量の絵馬が。
大避神社のご祭神はそのまま大避大神ですが、これは秦河勝という人物を指します。この秦河勝という人物は3世紀に大陸から渡来した秦氏の人で、聖徳太子の忠臣として活躍した人物。河勝は芸事に秀でており、猿楽の始祖であるとされているそうで、観阿弥・世阿弥親子や東儀家も秦河勝の末裔だと称しているのだとか。坂越には「坂越の船祭り」という瀬戸内海三大船祭りの一つにも数えられる勇壮な神事があり、大量の絵馬殿の絵馬の中には坂越の船祭りに因むものも多くありました。
芸能の神でもある秦河勝を祀る神社がなぜ聖徳太子の活躍した山城を離れて、瀬戸内海に面する坂越にあるのかというと、聖徳太子亡き後、太子の息子である山背大兄王の即位が最も有力視されていましたが、蘇我蝦夷・蘇我入鹿ら蘇我氏の勢力に妨げられ、山背大兄王は一族郎党自害に追い込まれます。この事件を契機に豪族の力を危険視した中大兄皇子・中臣鎌足によって蘇我氏は倒され、いわゆる大化の改新という天皇中心の政治体制に移行する改革運動が起こります。秦河勝はそんな政争から逃れるため、大阪の難波から虚舟(うつぼ舟とも)に乗ってこの坂越に流れ着いた、という伝説があるのだそうです。
坂越には秦河勝に関する伝説や昔話が色々と残っています。狩りの途中で休憩していた際に村人に養蚕技術を伝授したとか、身の丈5mはある大蛇を退治したとか、治水技術を伝えて農地を開拓したとか。伝説に纏わるスポットも坂越周辺の其処ここにあるようです。様々な伝説から、秦河勝は秦氏の持つ大陸由来の技術や知識を駆使して地域の発展に貢献し、地元民にも慕われていたという姿が浮かび上がります。
そんな坂越に残る伝承の中で大変興味深かったのが、大避神社の参道の先の海上に浮かぶ島「生島」が秦河勝の墓所であり、島全体が今だに禁足地とされているということです。
生島は坂越の船祭りの際に御旅所になる時以外、誰も上陸できないそうです。古来から大避神社の神地として守られたことにより、生島の樹林は原始の状態を保ち、国の天然記念物にも指定されています。
生島全景。島の左手の建物が船祭りの際の船倉のようです。島内には秦河勝の墓とされる古墳もあります。
大避神社には秦河勝自ら彫ったかまたは聖徳太子から賜ったとされる1300年前の蘭陵王の面が宝物として伝わっているそうで、雅楽との関わりが深いようです。坂越の船祭りも和船の船上で雅楽が奏でられる雅やかなお祭りなのだそうで、叶うならばまた祭禮の折に再訪したいところ。
坂越の船祭りは秦河勝の伝説に因んで江戸時代初期から始まったものだそうで、比較的新しいお祭りなので、果たして本当に秦河勝が虚舟で流れ着いたものなのかどうか、定かではありません。
大避神社は漢字を変えて、京都太秦にも同じ読みの大酒神社という神社があります。太秦は秦氏の本拠地であり、大酒神社には秦氏族の祖神である秦始皇帝・弓月君・秦公酒が祀られています。大避神社も赤穂や相生あたりに秦氏の一族が住み着いたことから秦氏の氏神として勧請されたものなのかもしれません。そんな秦氏の氏神が歴史上のスーパースターである秦河勝の貴人伝承と結びついただけで、実際に秦河勝が坂越に来たという事実はないのではないか、という説もあるようです。
ともあれ、仮に虚舟伝承が本当で、生島に眠っているのが秦河勝その人だとすれば、大切な主君を失った忠臣のセカンドライフとして、坂越での余生もなかなか悪いものではなかったのではないかと、晴天でどこまでも穏やかな坂越港を眺めながら想ったりしました。
坂越、こんなおもろ伝承がある場所だと思ってもみなかったので完全に不意打ちでしたが、短い時間で大変に楽しめました。やはり寄港地にはドラマがあります。