ゆたかわ雑記

有象無象

前玉の古墳群 その2

さきたま古墳群、続いては有名古墳である稲荷山古墳です。

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なんとこの古墳も登れちゃう。巨大古墳に登りたいって需要、一定数あるのかな。

初っ端の古墳が2つとも登れたのでさきたま古墳群の古墳は全部登れるのかと思いきや、古墳群の中で登頂できるのは丸山墓古墳と稲荷山古墳だけだった。というか、埼玉の古墳で登れるように整備されているのはこの2つだけらしい。

稲荷山古墳は全長120mの前方後円墳であり、堀は二重になっている。墳丘と中堤にそれぞれ「造出し」と呼ばれる張出し部がある。造出しも二重にあるのだ。5世紀後半の築造と考えられていて、さきたま古墳群の中では最初に築かれた古墳なんだそうだ。前方部は干拓で土取りが行われ消失していたが、復元整備によって当時に近い形に整備されている。稲荷山古墳は仁徳天皇陵と治定されている大仙陵古墳と墳形が類似していて、大仙陵古墳を模した古墳はこのほか全国でも例が少なく、造墓者がかなりの有力者であったことが推定される。造出しを備えた古墳も関東ではさきたま古墳群のみであり、このほかは近畿圏に集中していることから、造墓者がヤマト朝廷からも重要視されていた人物であったということが古墳の形状からも窺える。造出しでは葬送に関する祭祀が行われていたと考えられているんだとか。

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昭和43年(1968)の発掘調査で2つの埋葬施設が発見され、多くの副葬品が発見された中に、後に国宝に指定され歴史の教科書にも載っていた金錯銘鉄剣が含まれていました。

金錯銘鉄剣には表裏合わせて115文字に及ぶ銘文が金象嵌で刻まれていた。以下はwikiからの引用です。

(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

(表)辛亥年7月に記す。乎獲居臣(ヲワケの臣)。上祖の名は意富比垝(オホヒコ)。その子の名は多加利足尼(タカリノスクネ)。その子の名は弖已加利獲居(テヨカリワケ)。その子の名は多加披次獲居(タカヒシワケ)。その子の名は多沙鬼獲居(タサキワケ)。その子の名は半弖比(ハテヒ)。

(裏)その子の名は加差披余(カサヒヨ)。その子の名は乎獲居臣(ヲワケの臣)。代々、杖刀人首(護衛隊長)として大王に仕え、今に至る。獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)の朝廷が斯鬼宮にある時に、私は大王が天下を治めるのを補佐し、この百練の利刀を作らせ、我が奉事の根源を示すものなり。

亥年は西暦471年というのが定説であり、第21代の雄略天皇の御代であることから、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)は雄略天皇とする説が有力なんだそうです。朝廷のあった斯鬼宮は、諸説あるようだが現在の奈良県桜井市泊瀬朝倉宮を指すとされている。

同様に銘文のある鉄剣が、熊本県玉名郡の「江田船山古墳」からも出土していて、こちらは銀象嵌の銘文で、文字の欠損が多いが同じく獲加多支鹵大王の名が刻まれていると推定されることから、当時のヤマト王権の力が九州から関東にまで及んでいた証左と考えられている。

これらの鉄剣が発見されたことにより、雄略天皇は考古学上で存在が確認された最古の天皇とされているということで、稲荷塚古墳は考古学的に非常に重要な史跡と言える👏

そんな貴重な古墳が登頂できるように整備されているわけですが。

稲荷山古墳には粘土槨と礫槨という二つの埋葬施設が発掘されており、後円部の頂部に復元模型が設置されていました。

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礫槨・粘土槨のいずれも後円部中央からややずれた位置にあり、さらに副葬品の編年から古墳の築造時期よりも新しい6世紀前半に位置付けられるため、中央部にこの古墳の真の造墓者が葬られていると考えられているそうです。金錯銘鉄剣は礫槨の方から出土。

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鉄剣のほか、神獣鏡、轡、ヒスイ勾玉、銀杏葉、帯金具など、副葬品からも被葬者がかなりの有力者であったであろうことが窺えます。粘土槨は盗掘の被害を受けているため副葬品は少ないらしいが、礫槨に比べると元々簡素な造りであったっぽい。僅かに残っていた副葬品は武器や馬具など、これらも礫槨出土品と共に国宝に指定されています。

礫槨の被葬者である乎獲居臣(ヲワケの臣)ですらこれらの有力者しか持つことのできないような貴重な副葬品と共に葬られているというのに、この古墳の真の主の埋葬施設は一体どのような姿なのだろうか。というか真の墓の主とは一体誰なのか…ヲワケが追葬されているようなかたちになっていることを考えると親子等の近親者か?親子だとすると真の造墓者はヲワケの父の加差披余(カサヒヨ)であると考えられる。あるいはかなりの有力者であったことが推定されるヲワケに単独で古墳が築造されなかったことを考えると、真の主が元々この地方を治める豪族で、ヲワケの方が侵略者というか、真の被葬者に次いでこの地方を治める正統性を持っていなかった者である可能性もある。最初から造出し付きの前方後円墳であったことを思えば、真の主も元々ヤマト朝廷とかなり縁の深い人物である可能性が高いが…いずれにしても更なる発掘調査が待たれます。

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礫槨の被葬者、ヲワケについてはヤマト王権とかなり関係の深い人物であったことは確かだけれど、その出自についてはやはり諸説あってはっきりしていない。主な3つの説もwikiから引用。

1.ヲワケを畿内ヤマト王権の有力首長とし、礫槨被葬者はその部下で、この鉄剣を下賜されたとする説。オオヒコが阿倍臣・膳臣の祖であることから両氏の内の一人とみる。
2.ヤマト王権の有力者であるが、東国に派遣されて礫槨の被葬者になったとする説。
3.ヲワケをヤマト政権に連合していた東国の首長とし、礫槨の被葬者とする説。

そもそも礫槨の被葬者がヲワケ自身ではない可能性もあるということ。部下が追葬された可能性は確かにあるかもしれないが、果たして元の造墓者の槨の上にその部下の槨を築くだろうか?

日本書紀によると、西暦534年頃の安閑天皇の御代に、笠原使主(カサハラノオミ)が同族の小杵(オキ又はオギ)と武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性分が険悪で、密かに上毛野君小熊(カミツケノノキミオグマ)の力を借りて笠原使主を殺害しようとしていたが、謀を知った使主は京に逃げ出して朝廷に助けを求めた。朝廷は使主を武蔵国造と定め、小杵を誅した。これを受けて使主は朝廷に4ヶ所の屯倉を差し出したという。この一連の出来事を武蔵国造の乱といい、日本書紀に記されてはいるものの、伝承性が強いため史実か否かははっきりしていない。

笠原使主は埼玉県笠原(現:鴻巣市笠原)に拠点があったとされている。さきたま古墳群との関連性については以下の説もある。(以下wikiより)

何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する中型前方後円墳が出現したこと、鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラとも読めることから、笠原を本拠としたとされる武蔵国造の墓であるとする説もある。

武蔵国造の乱については、小杵の性分をわざわざ悪と記しているところなど、日本書紀の書き振りが大分怪しく感じられる。西暦527年とされる筑紫君磐井の乱の数年後の出来事と考えられるため、元になった同様の反乱があったのではないかという説もあるそうだ。小杵は敗死したが、一方で小杵に協力したとされる小熊は処分されたという記載がなく、上毛野は東日本では圧倒的な古墳築造地帯であってその後も栄えていることからも、武蔵国造の乱が日本書紀に記載の通りの内容であるとは到底思えない。単純に武蔵国造の座を争った一族間の対立というだけでなく、ヤマトに協力的な使主と、いわゆる「まつろわぬ」者であった小杵との対立だったではないか。

それにしてもさきたまの地に突如として巨大古墳群が築かれたことは確かで。日本書紀の記載通りなら、年代的に稲荷山古墳の築造年は使主が武蔵国造に指定される以前ということになり、武蔵国造に定められる前から朝廷からこれだけの力を与えられた豪族がいたということは、この地がヤマトにとってどれだけ重要であったのか、この地を掌握することにどれほどの旨味があったのかということを考えさせられました。

武蔵国は近畿に宮のあった朝廷からすれば東北地方への玄関口でもあり、東北は何度も東征が行われている蝦夷の地。5世紀頃には関東にも蝦夷が居住していたというから、武蔵国蝦夷に対して睨みを効かせる上で重要な拠点だったのか。

金錯銘鉄剣に記されたヲワケの上祖である意富比垝(オホヒコ)は、日本書紀古事記にそれぞれ記載のある四道将軍の一人である、大彦命(オオヒコノミコト)に比定する説がある。大彦命は第8代の孝元天皇の第1皇子であるとされている。日本書紀によると、崇神天皇の御代に北陸に派遣されており、東海に派遣された武渟川別、西道に派遣された吉備津彦命丹波に派遣された丹波道主命とともに四道将軍と称される。古事記では四道将軍としての派遣ではないものの、高志(越国)に派遣されている。なお、東海に派遣された武渟川別大彦命の子とされる。

意富比垝が大彦命を指すかどうかは色々な説があるようだけれど、もしそうならヲワケは皇孫にあたら人物で、関東ではさきたま古墳群にのみ大王級の古墳に築かれる造出しがあることにも納得がいくような気もする…ヲワケの時代にはすでに四道将軍も伝説級の存在だったであろうことを考えるとやはり箔付に使われただけであるような気も…。

 

ちなみに稲荷山古墳がなぜ稲荷山というのかというと、現在は撤去されているものの元々は本当に墳頂に稲荷社が祀られていたからなんだそうです。従前は今のようにわざわざ綺麗に草刈りされてたとは思えないので、稲荷社のある小山で稲荷山か。神社が古墳の上に建っているケースは各所で見られ、御祭神が被葬者の豪族であったりする場合もあるけれど、稲荷山古墳に関して言えば稲荷社を祀るというのは被葬者とは全く関係なさそうにも思える。稲荷社は五穀豊穣の神であるから、被葬者が地域の豪族として崇拝され地主神のように考えられていたならば、その者を神として五穀豊穣を願うのは自然なのかもしれない。後年になって稲荷神と混同されたとか。稲荷山古墳の稲荷社がいつから祀られていたものなかはわからないが、稲荷神は稲作の神であることから渡来人の信仰であるとも考えられるし、被葬者の出自について何かヒントがあったりするのかも…?何かこの地域限定の伝説とか伝承とか残っていたりしないのかしら…

 

一つの古墳でこれだけのことが妄想夢想できるのだからやはり古墳巡りは楽しい。これだけ色々書いてきたけれど、さきたま古墳群はたまたま時間があって寄り道できただけで、実は古墳公園併設の埼玉県立さきたま史跡の博物館や将軍塚古墳の展示館には全く入館できていない。なのでまた時間を見つけて、今度は開館時間にたどり着けるようにドライブにいく必要性が生じてしまいました。