ゆたかわ雑記

有象無象

前玉の古墳群 その1

他の都道府県名にも様々な由来譚があるように、例に漏れず埼玉県の県名由来も諸説あるようで。

今の埼玉県のエリアは明治2年大宮県が設置されたが、わずか8ヶ月後に浦和県に改称されたそう。

その後、明治4年11月14日に廃藩置県で忍県、岩槻県、浦和県が併合されて埼玉県が誕生した。現在の埼玉県の県域には20もの県が混在していたという。(多すぎ)

当時は江戸時代の幕府領や旗本の知行地を受け継いだままのところが多くあり、小さな県が乱立していたようす。

ちなみにこの11月14日が現在の「埼玉県民の日」となっているんだとか。

最終的には一時期群馬県編入されていた入間県が合流したり、各所いろいろな動きがなんやかんやあって現在の埼玉の形になったらしい。わりと単純な成り立ちの佐賀県出身者からすると、埼玉県の成り立ちは意外と複雑でなかなかドラマチックで全然頭に入ってこない…

このように大小の県が統合された成り立ちをもつ埼玉県だが、明治の廃藩置県で埼玉という地名が選ばれたのは、当時の埼玉県に属していた岩槻エリアに一時的に県庁を置くことが決まっていたからなんだそうです。

開拓地などを除いて、他の都道府県名も多くが既にその地方で使われている地名を県名として採用している例が多いと思うけれど、埼玉も同じようである。

では、既に存在していた「埼玉」という地名にはどんな由来があるのだろうか。

「埼玉」地名の発祥地は「埼玉郡埼玉村(現:行田市大字埼玉)であるという。

奈良時代万葉集には「前玉・佐吉多万(さいたま)」の名で見られ、平安時代の「和名類聚抄」では「埼玉・佐伊太末(さいたま)」の郡名が見られる。これらが転じて「さいたま」になったとされている。

この「さいたま」の元になった「さきたま」には語源が諸説あり、

  1. 「さきたま(前多摩・先多摩)」で武蔵國多摩郡の奥にある土地であるという意
  2. 行田市付近が湿地帯であり「さき(前)」「たま(湿地の意)」の意
  3. 幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂(さきみたま)」を由来とする説

などがあげられるがはっきりとしたことはわかっていない。少なくとも言えるのは古代から続くかなり古い地名であるということだ。

地名発祥の地である行田市の当地には、さきたま古墳群がある。

さきたま古墳といえば、金象嵌で文字が刻まれた鉄剣が発掘されたことで有名な稲荷山古墳が属する古墳群である。

そんなさきたま古墳にドライブのついでに先日立ち寄ってみました。

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さきたま古墳には稲荷山古墳のほか、下記の古墳が密集している。

丸墓山古墳、二子山古墳、将軍山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳、愛宕山古墳

5世紀末〜7世紀中頃にかけて築かれた古墳だそうだ。大きさは様々だがほとんどが前方後円墳であり、丸墓山古墳のみが円墳である。

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そんな丸墓山古墳にはなんと登頂できる。

群馬のかみつけの里博物館でも思ったけれど、登頂できるように整備されている古墳が関東にはいくつもあっておもしろい。

直径105mあり円墳としては国内外最大級、直径もさることながら高さも約17mあり、さきたま古墳群の中でもっとも高く、当然眺望も良い。

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なんかもう、めちゃくちゃ夏。

きちんと階段が付いて登れるようになったのは現代に入って公園として整備されたと思われるが、この眺望を求めて丸墓山古墳に登ったのは現代人だけではないらしい。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、同じく行田市にある忍城を水攻めする際に、この古墳の頂上に本陣を張った。

たった5日で28kmの堤を築いたという伝説の石田堤の逸話がある場所だ。

実際には元々荒川の自然堤防を利用して築いた堤でもあり、また水攻めを行いながら補強工事を行なっていたということで、完全に5日で築堤したわけではないようだが、地の利を活かして短期間で堤を築いたこということは違いないようで、昔の人の知恵と技術には驚かされるばかりだ。三成すごい。

三成の逸話として石田堤の伝説は知っていたけれど、それが埼玉の話とは知らなかったもので不意に史跡に出会えて嬉しい。

古墳の上に陣を張るなんて罰当たりな気もしてしまうが、一方で、開発によって壊してしまったり、古墳から土を持っていったり、現代の私の感覚からすると大胆だなと思うようなことも歴史の中では平気で、あらゆる地域で行われている。もちろん盗掘もそうだ。

長い歴史の中で開発等によって既に失われた古墳というのは多々あると思うが、現代までに残っている古墳について人々はどのような感覚を持って接してきたのだろうか。

既に失われてしまった古墳のことを思うと史跡を残す意味ではとんでもないことだけれど、古墳を崩したり利用するという行為の中にも確実に、これまでの歴史の中で人々の生活の営みがあるのだと思うとなんだかおもしろい。

罰当たりだと思いながらものっぴきならない事情でそうしたのか、それで何か起これば呪いだ、祟りだなんて騒ぎになり、何もなければそのままか。

そもそも被葬者が誰なのか、それが墓なのかどうかということすら、地域の伝承の中で伝わっている場合もあれば、全く何もわからなくなっている場合もあるだろう。

それでも現代まで古墳が残っている、残されてきているというのはやはりおもしろいことだなと思う。

ちなみに先の丸山墓古墳も、埋葬施設については未発掘のため詳しいことはわかっていないらしい。よくわからないままに古墳として整備して、さらに階段までつけて登れるようにしてあるのほんとおもろい。全体的にさきたま古墳群の他の古墳も、未発掘のものが多いらしく結局なんかよくわかっていないようで、よくわからないままに世界遺産登録を目指しているのもさらにおもろい。

 

さきたま古墳もかつては、現在残っている大型古墳の周りに35基の円墳と1期の方墳があったそうだが、昭和初期の近隣沼地の干拓で土を供出させられて取り壊されてしまったそうだ。

そう考えると本当に規模の大きな古墳のようだ。鉄剣などの貴重な埋葬品があることも考えると、相当力を持った豪族だったのだろう。

現在残っている古墳群だけでも十分大きいのだけど。

色々書いたけれど、まだ古墳1基についてしか書けていないので続きます。